かりんちゃんの随心日誌

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『精読 学問のすゝめ』読了

なんだろう、この本を読むと、ずっとぐるぐる回るのような感覚。全体としては、確かに『学問のすゝめ』の説明ではあるとも、何度もあちこち飛び回るみたいな説明なので、走馬灯を見ている感覚。

雑や散乱というか、基本は筆者の思うままに、言いたいことをそのまま整理なしに文章に落とした、みたいな感覚。ゆえに、読み終わったら、何となく分かるようだけど、なんとなく疲れている。

 

しかし、『学問のすゝめ』の時代背景や諭吉さんの心境を分析しているので、なぜ『学問のすゝめ』にこのような文章を書かれているか、一応詳しく説明しました(ややうんざりぐらい)。

例えば、四編五編は「学者」向けに難しく書いてあったと原文にはそのような説明はありましたが、じゃその「学者」は誰?というのは諭吉さんは結局明示してない。そういうところを説明してくれる本です。

ただし、説明と言っても結局のところ、解説はほとんど初編、二編三編に集中。最後の結末は七編まで広げるが、それ以降はもうここまでいいだろう、あとはお前らが解読しろ。という投げっぱなしです(苦笑)。

 

とはいえ期待外れでもない。少なくとも『学問のすゝめ』を書く諭吉さんが実際何を思うか、どうしてそれを書くか、原文だけでは掴め取れない情報をわかるようになった。

それで再度原文を読むと、もしかしてまた新たな発見が出てくるかもしれない。

 

さて、ちょうど『戦前まで』を読み切ったところで、やはり考えることです。諭吉さんが『学問のすゝめ』で掲げた理想、どうも戦前とは完全に衝突しているようです。

『学問のすゝめ』では「お前らは馬鹿になってないで賢くなって国を支えろ」と言ってたのに、戦前は正気であればすぐおかしいと思う「竹やりでb29を落とす訓練」とか、政府が言うことが絶対みたいな、『学問のすゝめ』で批判された「御上様」みたいな全体主義の世界です。つまり「一身独立」すらできていない。そこは一応、この本の筆者も同じように戦前は「蒙(バカ)」と指摘した、だから戦後は『学問のすゝめ』が再度たくさん読まれたと話した。

やはり、戦前を見たら諭吉さんは泣くんでしょうな…

 

そもそも四編五編の「学者」は結局政府関係者なんですから、諭吉さんが目指した理想は、結局あの頃では実現できなく、みんなは「蒙(バカ)」のままで太平洋戦争に突入しまった。

 

さて、今は極左が思考停止のようにポリコレをひたすら主張する世の中です。中国はもちろん「蒙(バカ)」ばかりだが、世界もまともに思考することができず、TikTokやら無益な情報のみ洗脳されて、ほとんど「蒙(バカ)」ばかりになってしまった。

そんな世の中に、『学問のすゝめ』はまたいつかたくさん読まれる時期がやってくるではないか、と思ってしまう。